本のお話②「当事者は嘘をつく」、私のことか?

 

 全く更新していない社研のブログ、二年越しの更新です(笑)。


 ツイッターですでに「これはおすすめ」と書いたのですが、改めて何がおすすめなのか書きたいな~と思って、このブログに行きつきました。私個人のブログで公開してもよかったけど、もったいない気がしたので。

 さて、今回私が紹介するのは小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』です。
 実はこの本がAmazonのおすすめで出てきたとき、「おん?また#MeToo運動への揶揄か?」なんて思っていました。
 ただ信田さよ子さんの推薦メッセージが書かれていたので、「あ、じゃあもしかしたら私の好きなタイプの本なのかも」と思って購入。著者の小松原さんは性暴力サバイバーであり、研究者らしい。
 その「サバイバー」である彼女が、なぜ「当事者は嘘をつく」などと言うのか……もう気になって気になって、届いた瞬間一気読みしました。

 いやもう、最初タイトル見たときに思ってたのと全ッ然違った。衝撃。もう、マジで衝撃。

 まず「はじめに」を読んで「これは間違いなく私の話だ!」と確信しました。彼女が「はじめに」で、性被害を語ることについて書いている部分を、ちょっと引用します。

 

 過去そのものではなく、私の手によって編集した一部の物語しか、私には提示できない。そのうえ、私はどんなに真摯に本当のことを語ろうとしても「自分は嘘をついているのではないか」という強迫観念を追い払えない。(p.5)

 たとえ、本当のことを語ろうとしても、私は嘘をつくことから逃れられない。そう私は感じている。このポイントを、この本のスタート地点にしたい。
(中略)この物語は真実だが、私は常に「嘘をついている」と思いながら語っている。あなたが、私の言葉を疑う以上に、私は自分の言葉を疑っている。だからこそ、私はあなたに最後まで聞いてほしい。(p.6)

 

 あんまりネタバレしてもいけないので、この辺で留めておきます。
 が、すでにこの部分だけでも「買った甲斐があったな」と思いました。というのもこの「嘘をついている」という感覚、まさに私が長年悩まされてきたことなのです。

 

 私はたぶん、おそらく、DVサバイバーです。
 小松原さんと違って「性暴力」のサバイバーではありません。だから性暴力被害者の方たちに比べて、「被害を受けたと、嘘をついているのではないか?」という質問に悩まされることは少ないかもしれない。
 でも「私はDVサバイバーで…」と話すとき、いつもどこかで「私は嘘をついているのではないか」という不安がぬぐえません。
 父親に「俺は虐待なんてしていない」と言われ続けたせいなのか、私よりずっと酷い目に遭った人たちと出会ってきたせいなのか。なぜそう思ってしまうのか分からないけど、漠然と何を話しても嘘をついている気分になる。だから「たぶん、DVサバイバー」と言ってみる。
 それがものすごくストレスなのです。

 ただそれを言うと「なんでわざわざDVのことを他人に言うんだ」とか「じゃあ言わなきゃいいじゃん」とか、「カウンセリングでも受けたら?」と言われます。
 挙句の果てには「もう忘れなよ。あんな奴(私の父親)のことなんか思い出しても、何の意味もないじゃん。苦しいだけ」と。

 でも私にはどうしても「何の意味もない」とは思えないのです。

 その理由もうまく説明できません。
 けれども、例えば私が「DVサバイバーです」と明かすことで、「実は私の父親もDV親父でね」と語りだす人がいる。「家に灯油をまかれて、火をつけられそうになって、裸足で逃げた夜もありました」「母親が毒親で、束縛激しくてマジでキツイ」「サバイバーじゃないけど、性的マイノリティなんです」……今まで、本当に色んな人が、色んな経験を語ってくれた気がします。
 そしてみんながポロっとそういう話をしてくれるのは、私が今なお「回復しきっていない当事者」だからなのかな、と思う。

 なんやかんやで、今の私は「父からDVを受けてきた私」の上にいます。
 それをすっかり忘れること、そして語ることをやめてしまうことは、自分に対するとんでもない裏切りに感じる。
 忘れるくらいなら、完治しない傷口をずっと懲りずに弄っていたいし、時々悪夢にうなされるくらいでちょうどいい。私は語ることで、「嘘をついてるなぁ」と思いながら話し続けることで、その先に何かあると信じている。

 そういう私の気持ちを丸ごと肯定してくれるような本でした。
 読み返して「抽象的すぎるな……」と思ったけど、このまま載せてしまいます(笑)。
 意味不明だったら、みんなとりあえず『当事者は嘘をつく』読んでね!

(ひらみー)