映画のお話②観客席よりバトルグラウンドへ

 

画面に映る顔が目まぐるしく変わっていく。
ワンシーンにつき1分足らずで、次々と喋る人が切り替わる。ジャーナリストに弁護士、政治学者、議員、資料館館長、市民運動家から果てにはユーチューバーまで、登場人物たちの身分にはあまり「一貫性」と呼べるものはない。
が、左派か右派かのどちらかであれば、その顔触れはさほど困惑をもたらすものではないはずだ。あるいはそのどちらでもなくても、明確に自分の政治的立場を語れる人にとっては。

従軍慰安婦問題――1991年8月、金学順(キム・ハクスン)氏が日本軍従軍慰安婦であったことを名乗り出て以来、強烈な論争の中心にあるこの問題を取り巻く人々が、画面の中にずらりと並んでいた。
映画の名前は「主戦場」。日系アメリカ人2世のミキ・デザキ監督が初めて作った、超・スリリングなドキュメンタリー映画である。

 

公式サイトはこちら↓

www.shusenjo.jp


さて、このブログを書きながら、私(ひらみー)はどんなふうにこの映画の話をすればいいのか迷っている。どこからどう話せばいいのだろうか。とりあえず、この映画を観るまでの経緯を少し話したい。


私たち和大「しゃけん」は、2021年の衆院選が終わってからアジア・太平洋戦争について学んできた。
学習会は11月にスタートし、まず家永三郎『太平洋戦争』を、そして吉見義明『従軍慰安婦』を読破した。3月にはジェンダーとロシア・ウクライナ戦争を主題にしたシンポジウムを開き、今『ネット右派の歴史社会学』を新たなテキストして読んでいる。ここまで、大きなテーマはアジア・太平洋戦争でありながら、サブテーマとして歴史修正主義を据えているような状態だ。
ところで私たちの先輩の中には、「主戦場」が最初に公開された頃、「和歌山でもぜひ上映会を」といくつかの施設に掛け合った人がいるらしい。結果はことごとく惨敗で、要するに「政治的な問題を含みすぎる」とのことだった。
そのあと、だいぶ月日が流れてから和歌山でも公開されたものの、私を含めて何人かの社研メンバーは都合がつかずに見れなかったので、すでに映画を観たメンバーも一緒に「アンコール上映」を観に行った。大阪十三にある第七藝術劇場で、なんとデザキ監督の登壇付き。サインまでいただいて、感想を言うのであれば「最高」の一言に尽きる。

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パンフレットにいただいたサイン

でもこの感想を、実は「しゃけん」のブログで書いていいものかちょっとだけ迷ってしまった。
「主戦場」を上映した後、デザキ監督は映画に登場していた人たちのうち5人の人物から訴えられた。デザキ監督が念押しして語ったように、彼は訴訟に見事「勝訴」したのであるが、相手は控訴しているらしい。しかし自らの論は全く変えず。監督は「彼らが本気で勝とうとしているのか、わからない。ただ私を黙らせたいだけかのように思える」と言った。それは的を射た考察だと私は感じる。


ここで少し私自身の話をしよう。シンポジウムで発表したり、レポートを書いたりするとき、私は自分の語りに力強さと若干の毒、そしてユーモアを加えている。「過激でびっくりした」と言われることもあるし、「辛辣さが面白い」と言われることもある。そうした感想に、私は特に驚かない。共感を得るための掴み、皮肉っぽく笑いながらニヒルに話す場面、真剣に語り掛ける場面……発表のための原稿は、自分で言うのもなんだがかなり緻密に作り上げているつもりだ。
だから私は大抵の感想に対し、「作戦通りよ」と返している。が、その実わりと悩んでもいる。私の書いた文章は、どこかのタイミングで、私の意図しない場面で突然目の前に現れて、私を苦しめるかもしれない。さらに私の書いた文章は、そのまま社研の書いた文章だと受け取られてしまうかもしれない。それは私の望むところではない。私の文章の責任は、私のところにある。けど、それすらも理解してもらえないかもしれない。

ひとえに私は、その時「私のような人間を黙らせたい何者か」の影に怯えている。そして、民主主義社会においてそんなことで怯えていても仕方がないので、私はその影に抗う気持ちで文章を書いている。威勢よく喋ることで、自分は自分の主張を曲げないことを再確認している。
でもこの国の民主主義が決定的に壊れてしまったら? 実名を晒し、素顔を晒し、いわゆる国家が国民に望む思想とは全く異なる思想をペラペラ喋ってはばからない。そんな私の目の前で、もし民主主義が崩れ落ちたら? 私はぞっとする。急に、私自身の破滅が用意されているかのように思える。
そして従軍慰安婦に関する話題は、私を十分破滅させるに足るような「とてつもなく大きな」政治的問題だと、私は感じている。


けれどもちょっと不思議なことに、「主戦場」はその恐怖を思い出させつつ、それでも戦いを続けたいと思わせてくれるような映画だった。
映画の詳しい中身については、「主戦場」の推薦コメントにもあるように「必見の映画だが、内容については書きたくない。なるべく先入観を持たずに、真っさらな目で見てほしいから」。しかしとにかく、「主戦場」を見ていると、イデオロギー的には同じ側に立っているかのように見える人々の間でも、若干の意見の相違があることが分かる。
とりわけ、「従軍慰安婦は存在した(売春婦ではなく、性奴隷だった)」とする陣営の中で見られる相違は、私の興味を惹くものだった。ただそのことは別に構わないと思うし、ましてやそうした相違が元・慰安婦の方たちの言葉を全く信じない理由にはならないはずだ。私たち観客は、彼ら/彼女らの主張を見て、どれが最も筋が通っていて、自分を納得させてくれる話なのか判断すればよい。
しかし私が映画を観て最も落胆したのは、日本の若者はおろか韓国に来ている日本人までもが、「従軍慰安婦? よく知らないです」と気まずそうに答えていたことだった。そしてそれは数年前の、まだ社研に入っていない頃の私自身の姿でもある。

私は何も知らなかった時期に戻りたいとは思わない。
そうしようと思えば、私は「主戦場」のような映画を全く見ないで過ごすこともできる。でもそんなことはしたくない。戦争をやりたい連中は、戦争の中で傷つけられてきた人たちの存在を歴史から葬り、なかったことにして、また新たに誰かの人権を奪おうとする。そんな連中が、地べたで必死に生きる人々を「高みの見物」するような日本にはなって欲しくない。私の「日本人」としてのアイデンティティは、平和と自由と民主主義を愛する日本にある。数多の女性たちを傷つけた大日本帝国に、私の故郷はない。

 

歴史を修正しようとする人々は、きっと何度でも私たちを観客席に追いやるだろう。彼らの好む歴史を、ただ眺めるだけの場所に。
でも彼らがそうするたびに何度でも、私はまた主戦場に立つ。自分の背後についてくる影にちょっとだけ怯えながら、もう一度バトルグラウンドへ。

(ひらみー)

 

大阪十三の第七藝術劇場にて、4/22(金)まで上映中です!↓

www.nanagei.com